南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(2)|幼少年期・青年期

南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(2)|幼少年期・青年期

 

“てんぎゃん”

熊楠少年はそのように呼ばれていたそうです。

てんぎゃんとは、「天狗さん」という意味で、一説には、山に入ると一日戻ってこないからとか目鼻立ちがはっきりしているからなどと伝えられています。

 

熊楠は、1867年(慶応3年)4月15日和歌山市において父弥兵衛・母スミの二男として生まれました。

熊楠の兄弟姉妹は、長男藤吉、長女くま、三男常楠、次女藤枝、四男楠次郎という四男二女という家族関係です。

後に、弥兵衛の事業を引き継ぐことになるのは長男でも次男でもなく三男常楠なのですが、常楠は実直な性格もあり、しっかりと事業を受け継ぎ現代にまで続いています。

ここに今日の重要な課題である事業承継に関する弥兵衛の達眼ぶりがうかがえます。

さらには、多子時代というのは子供の強みに基づいて後継者を決めることができます。家督相続という長男が絶対の制度があるにしても選択肢として多くの候補者がいる方が可能性を考えると広がります。一方、少子高齢化の現代社会では、克服されるべき大きな課題がここにあります。

 

熊楠の幼少期を物語るエピソードとして有名なのが、百科事典である「和漢三才図会」の筆写です。

ずば抜けた記憶力で小学生の頃、知り合いの家にある「和漢三才図会」全105巻を記憶して家に帰りすべてを書き写したというものです。

~栴檀は双葉より芳し~というのはまさにこのことです。

 

和歌山中学に進学した熊楠はそこで人生を大きく左右する一人の教師と出会います。

鳥山啓(とりやまひらく)。

学校嫌いで鼻っ柱の強い熊楠が生涯ただ一人先生と呼んだのがこの鳥山先生です。

鳥山氏は、植物学にはじまり維新後には生物学、理化学、天文学、地理学、和歌、漢籍、英語とその天分を多方面に発揮しました。熊楠が、自然科学の学問の道を進んでいくうえで大きな意味を持ったのが鳥山氏との出会いです。

余談ですが、「守るも攻むるも黒鉄の♪」ではじまる軍艦マーチの歌詞の作者は鳥山氏なのです。

 

明治16年3月に和歌山中学を卒業した熊楠は、上京して共立学校に入学しました。共立学校は、東京大学予備門に入るための準備校ということです。

この共立学校で英語を教えていたのが、後の総理大臣高橋是清です。高橋是清が、南方という姓の読み方をなかなか憶えられず「ナンポウくん」と呼ばれたと熊楠自身が後年回想しています。

 

明治日本の教育の中枢には、これからの社会・文化を背負う人たちが集まっていることにただただ感心します。

ちなみに、東京大学元副学長で教育心理学専門の南風原朝和教授に熊楠が一年間通った東京大学予備門について質問したところ「旧制高校物語 秦郁彦(文春新書)」という参考図書までご紹介いただき教えていただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 

さて、東京大学予備門は東京大学に入学する人たちのための準備教育機関でありましたが、熊楠が入学した明治17年東京大学予備門前には前出の「旧制高校物語」の中で夏目漱石、正岡子規、南方熊楠の三人の巨人がいたと紹介されています。

その他にも日本海軍の智将とうたわれた秋山真之も熊楠の同期生です。

 

いずれにしても、日本の教育制度の枠組みには収まらない熊楠です。自ら大学予備門時代を振り返り「授業などを心にとめずひたすら上野図書館に通い思うままに和漢洋の書を読みたり。従って欠席多く成績よろしからず」と述懐しております。

 

そして、想像を絶する知的好奇心を満たすため、ついに、熊楠はアメリカを目指します。

 

つづく

 

 

参考文献

 

・縛られた巨人 南方熊楠の生涯 神坂次郎 新潮文庫

・南方熊楠 日本人の可能性の極限 唐澤太輔 中公新書

・南方熊楠 近代神仙譚

・南方熊楠 鶴見和子 講談社学術文庫

・南方熊楠 梟のごとく黙座しおる 飯倉昭平 ミネルヴァ書房

・南方熊楠アルバム 中瀬喜陽・長谷川興蔵 八坂書房

・南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人 平凡社

 

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