南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(3)|アメリカ在留時代

南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(3)|アメリカ在留時代


 

東京大学予備門を退学した熊楠は1886年(明治19年)2月に故郷和歌山県に帰ります。

日本の教育制度の枠組みに収まらなかった熊楠は、同年10月、新天地としてアメリカを選びます。その動機や経緯については不明な点が多いのですが、一部には徴兵逃れを画策したのではという憶測があります。しかし、私は、熊楠の並外れた知的好奇心は、当時の日本では満たされないと感じたのは事実だと思います。また、外国で学問を積み、日本の発展に貢献するためアメリカに渡ろうと決意したものと考えています。もちろん、そのためには巨額の費用がかかります。そこは、和歌山でも有数の商家である父弥兵衛の経済力と先見の明があったことは間違いありません。

 

1887年(明治20年)1月にサンフランシスコに上陸します。

そこで、パシフィック・ビジネス・カレッジに入学しますが、自然科学に大きな関心を持っていた熊楠が商科大学入学とは明らかにミスマッチでした。

結局夏には中西部を経て、和歌山県出身の知己も多いミシガン州ランシングへ向かいミシガン州立農学校に入学します。

勉強好きだが学校嫌いの熊楠であります。そのため、飲酒による騒ぎを起こし一人責任をとりミシガン州立農学校も退学してしまいます。熊楠は、アメリカにおける学校での勉強を「新建国の米国の学問は、ドイツ、イギリスに及ばぬ事万々、我が日本の学問にさえも劣ること数等。このような学校に三年や四年かよって卒業したところで、所詮は無益なことなり。」と言っています。

 

ミシガン州を後にした熊楠は、フロリダ州ジャクソンビル市で食料品店を営む中国人江聖聡氏の家に下宿することになりました。熊楠にとって江さんに出逢ったことは幸運でした。江さんは、遅くまで勉強している熊楠を「先生(シェンション)」と呼んで、破格の好意を示してくれました。

そもそも熊楠をフロリダやキューバに向かわせたのは、シカゴ在住のカルキンスという退役陸軍大佐との交流でした。地衣類など隠花植物の研究家の彼から、フロリダがその宝庫であることを聞かされたためでした。そして、実際に研究成果もあげています。※1

 

アメリカでの植物採集により標本づくりも一定の区切りがついた頃、熊楠はまたもや灼けるような学問への渇きをおぼえるのでした。

そして、堪らず江さんにジャクソンビルを去る決心を1892年(明治25年)8月19日に打ち明けるのでした。

熊楠の学問に対する渇きを満たしてくれる場所、それは、当時世界の学問の中心であるロンドン以外にはありません。これは、歴史の必然であったのでしょう。

1892年(明治25年)9月14日、熊楠はアメリカを発ちました。

 

つづく

 

※1アメリカでの研究成果の一部

「ミシガン州産諸菌標品集」160種

「北米産諸菌標品集」3巻325種

「北米産地衣標品集」2巻377種

「フロリダ産菌標品集」6巻521種

 

 

参考文献

 

・縛られた巨人 南方熊楠の生涯 神坂次郎 新潮文庫

・南方熊楠 日本人の可能性の極限 唐澤太輔 中公新書

・南方熊楠 近代神仙譚

・南方熊楠 鶴見和子 講談社学術文庫

・南方熊楠 梟のごとく黙座しおる 飯倉昭平 ミネルヴァ書房

・南方熊楠アルバム 中瀬喜陽・長谷川興蔵 八坂書房

・南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人 平凡社

 

 

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