南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(4)|イギリス在留時代

南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(4)|イギリス在留時代

アメリカで学ぶべきことは何もないと決心した26歳の熊楠は、1892年9月26日学問の本場イギリスにたどり着きました。

 

イギリスに滞在して間もなく、一人の女性に話しかけられました。その話しかけた女性が、年上の女性に呼ばれてフランス語で会話していたそうです。それくらいのフランス語なら理解できる熊楠が、ボケたふりをして聞き耳を立てていると「その男は女を抱いたこともない奴だ。そんな朴念仁に百万回誘いをかけたって無駄だと言うことがわからぬのか、そんなに目がきかんでは商売にも何もなりゃしない」という内容だったそうです。

「翌日からさっぱり近寄り来たらず、それでようやくこのいわゆる姉妹は仇し、仇浪浅妻船の浅ましい世を乗せ渡る曲者とも分かれば、かかる商売の女は男を一瞥して、たやすくその童身か否かを判ずる力くらいは持つものとも知った」と熊楠は随分と感心した筆ぶりで、後年の著書『十二支考』に書き添えています。

これが、イギリスの第一印象と言うことのようで、非常に熊楠らしい感想だと思いました。

 

また、熊楠は、イギリスに渡った時に父弥兵衛がすでに亡くなっていることを知りました。

熊楠の海外留学を精神的にも経済的にもバックアップしてくれていた父の存在は相当に大きいものだったのでその悲しみは計り知れないと思います。

父弥兵衛が、亡くなった後は弟常楠が家業を継いだのですが、長男藤吉が遊び人だったので兄弟仲が悪く熊楠への仕送りも滞るようになり熊楠のイギリスでの生活は困窮したものになっていきます。

 

一方、熊楠は、苦しい生活の中、研究と言うことでは大きな転機を迎えます。1893年科学雑誌ネイチャーに「東洋の星座」と題する論文を投書しました。ついに、アカデミックな世界に熊楠ありと名乗りをあげたのでした。

その後も、東洋にも固有の科学思想があった事を紹介し続けました。結局、ネイチャーへの掲載論文は生涯で51本にもなりました。

さらに、民俗学の情報交換雑誌ノーツ・アンド・クリエーズにも寄稿を始め、「さまよえるユダヤ人」「神跡考」などを発表しました。熊楠は、生涯に約四百本もの英文論考を書いておりこれは戦前戦後を通じて桁外れの量であるそうです。

 

 

そして、イギリス滞在中に運命的な出会いがありました。

 

革命家孫文との出会いです。

 

大英博物館東洋部図書部長ダグラスの部屋で孫文を紹介されたのですが、孫文とはじめて対面した時に語った言葉を熊楠は後年こう回想しています。

「一生の所期は、と問わる。小生答う、願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり、と。逸仙(孫文)失色せり。」

あくまでも熊楠の回想なため真偽の程は分かりませんが、その後も孫文との交流は続き、孫文が横浜で亡命しているときに、熊楠が帰国したと聞けば和歌山まで会いにやってきたり、ハワイでは地衣類ウメノキゴケの巨大な標本を送ったりと熊楠に対して好意と敬意を抱き続けたことは間違いないと思います。

その二人は三度相まみえる機会は訪れませんでした。

熊楠はそのことについて「人の交わりにも季節あり」

と孫文が亡くなったあとに漏らした一言が、私はとても気に入っています。

 

大英博物館で研究員として研究に没頭して、多数の論文を発表して、孫文とも出会い大きな意味を持ったイギリス滞在です。この時期の熊楠が、知の巨人熊楠となった貴重な時代ではなかったかと僕は考えます。

 

~天下の男といわれたい~

と19歳で日本を飛び出して、アメリカ滞在6年、イギリス滞在8年となった頃、ついに、熊楠は不本意ながら帰国することを決意します。

 

つづく

 

参考文献

 

・縛られた巨人 南方熊楠の生涯 神坂次郎 新潮文庫

・南方熊楠 日本人の可能性の極限 唐澤太輔 中公新書

・南方熊楠 近代神仙譚

・南方熊楠 鶴見和子 講談社学術文庫

・南方熊楠 梟のごとく黙座しおる 飯倉昭平 ミネルヴァ書房

・南方熊楠アルバム 中瀬喜陽・長谷川興蔵 八坂書房

・南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人 平凡社

・十二支考 南方熊楠 岩波文庫

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