南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(5)|田辺時代前半 神社合祀反対運動エコロジーの先駆者

南方熊楠と私~天下の男と言われたい~(5)|田辺時代前半 神社合祀反対運動エコロジーの先駆者

イギリス留学を諦めた熊楠は、1900年33歳の時、帰国しますが、熊楠を待ち受けていたのは実家の冷たい対応でした。

家業を継いだ弟常楠は、事前に電報で熊楠帰国を知っており神戸まで迎えには行きました。しかし、常楠の家族を含めた関係者の総意であったのでしょう熊楠を実家に迎え入れることはせずに紀南勝浦町ににあった南方酒造勝浦支店が熊楠の居場所とされました。

常楠にとっても熊楠の海外留学のための送金は大きな負担でありました。熊楠が受け取った実家からの送金8ポンドという金額はロンドンで最低限の生活を維持する金額ですが、日本における送金額百円というのは極めて大きな金額でした。しかも、15年間という長期間にわたる研究生活を続けることができたのは常楠はじめ南方酒造関係者の支えによるところが大きかったことは言うまでもありません。

海外留学により熊楠も学位のようなお土産を持って帰ることなく帰国したこともあり家族は面倒な熊楠が実家にいることによる混乱を嫌がったということでしょうか。

 

ここで、ちょっと違う視点から考察したいと思います。

父弥兵衛は、子供の将来を正確に予見して、相続・事業承継について絶妙な采配をしているのです。現代社会で、国家的な課題となっている事業承継に関しても参考になると思いますので再度ご紹介します。

具体的な財産分与方法は、総財産を半分にして半分を長男藤吉に分与して、残りの半分を弥兵衛、二男熊楠、三男常楠、長女、四男楠次郎で五等分にしました。

そのことについて熊楠は次のように記しています。

「この亡父は無学ながらも達眼あり・・・(中略)・・。死ぬに先立つ三、四年、身代を半分にして半分を長男弥兵衛に自分の名とともに譲り、残る半分を五分しておのれその一分を持ちあり、四分を二男たる小生、三男常楠、四男楠次郎と小生の姉とに分かち、さて、兄弥兵衛は好色淫佚放恣嚮縦なるものなれば、われ死して五年内に破産すべし、二男熊楠は学問好きなれば学問で世を過ごすべし、ただし金銭に無頓着なるものなれば一生富むこと能わじ、三男常楠は謹厚温柔な人物なればこれこそわが後をつぐべきもの、またわが家を保続し得べきものなり、兄弥兵衛亡滅の後は兄熊楠も姉も末弟もこの常楠を本家として帰依すべきなり」

実際に、長男藤吉は破産したということなので、父は子供の特性を見抜き見事な後継指名により事業承継を成し遂げたと言えるでしょう。父の英断により熊楠15年にも及ぶ海外生活が出来たということが、知の巨人熊楠を生んだということになります。

 

さて、那智山を下りてしばらくした1906年熊楠40歳の時、12歳年下で田辺市にある闘雞神社の神官田村宗造の娘松枝と結婚します。その後、1907年長男熊弥、1911年長女文枝の子供二人に恵まれます。

田辺市で生活を始めた熊楠が、熱心に活動したのが神社合祀を進める明治政府の政策に異を唱えた神社合祀反対運動です。神社周辺には自然が残っており希少な動植物がそこにいるため、自然環境保護のため神社をなくさないように猛烈に活動しました。余りの過激な活動により大乱闘事件を起こして収監されるという事態にもなりました。しかし、驚くことに熊楠はこの留置場の中でステモニチス・フスカという新種の粘菌を発見したのであります。

収監された状況で新種を発見する学者など世界広しといえども熊楠以外にいません。

何はともあれ熊楠は、この運動により「エコロジーの先駆者」と呼ばれることになります。

田辺市でも順調に研究をつづけ、晩年の昭和天皇へのご進講という栄誉へと続いていきます。

 

 

参考文献

 

・縛られた巨人 南方熊楠の生涯 神坂次郎 新潮文庫

・南方熊楠 日本人の可能性の極限 唐澤太輔 中公新書

・南方熊楠 近代神仙譚

・南方熊楠 鶴見和子 講談社学術文庫

・南方熊楠 梟のごとく黙座しおる 飯倉昭平 ミネルヴァ書房

・南方熊楠アルバム 中瀬喜陽・長谷川興蔵 八坂書房

・南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人 平凡社

 

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